「投資」と「仕事」
「投資」とは何か。投資とは資産に対して適切な価格付けを行う行為、とします。
株式投資なら株券に適切な価格付けを行うことが投資となります。適正な価格付けを行うことで、経営者は市場から融資以外の資金調達の手段を実行しやすくなります。これがもし安ければ資金調達は難しくなります。逆に高い場合、市場が経営者に間違ったメッセージを送っていることになりますし、行き過ぎた価格は暴落を伴いやすくなりますので社会不安にもなりましょう。
安くても高くてもダメなんです。
では高い安いはどう判断したらよいのか、という話になると決まって偉い学者さんが決めればいい、と主張する人がいるんですが私はそうは思いません。投資に正解はないんですよ。だから、いろんな立場の人が各々の判断で決まった価格こそが、適正価格になるってのが今のやり方なんです。
この点は民主主義と同じですよね。
ファンダとかテクニカルとか短期とか長期とか色んな人がいてそれでいいんです。各々の意思で高い・安いの判断をし売買を行うことで自然と適正価格が決まるんだと確信してます。
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「仕事」とは何か。仕事とは赤の他人を幸せにする行為、とします。
例えば、高校野球。彼らは仕事なのかと言われればそうではないだろう。スポーツとして競い合うことで健やかな成長を目指したものであり、お茶の間の閲覧者を楽しませる必要はないし、その責任もないし、対価を貰うこともない。シュミとかアソビで括られると不本意だろうが、外野が何を言おうが放置しておけばいい。
プロ野球はどうだろう。プロであるからには観客やファンを楽しませることが必要とされ、不本意な業績であれば職を失う。その分、業績に対して対価を貰う。ファンという赤の他人を楽しませることが彼らの役割であり仕事なわけだ。
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「投資」は「仕事」となり得るのか。
まず適正な価格付けを行うことは、社会の発展につながることは認めて欲しい。例えば、新薬事業に融資が付くわけもなく投資家からの増資で研究費をまかないながら上市まで漕ぎ着くしかない。新薬の権利に価格が付けられないのなら、新薬の事業は世の中に存在することができません。投資家も新薬が出来なければほぼ無価値の権利に価格付けをするのだから、何らかの意義はあろうかと思うんですよ。Amazonの例を書こうかと思ったけど長くなりそうなので止めとく =)。
では仕事になり得るのだろうか。
上記の例で例えるのなら精々、高校野球止まりなんだろうと思う。自分の付けた株価が社会のためになったと実感できればまた違うのだろうけど、そいう機会はお目にかかったことがない。結局、自分のためにやったことで誰一人幸せになんかしてないじゃないか、と言われれば反論しようがない。シュミだのアソビだのギャンブルだの言われても、そいう側面があるのは否定しない。
でも投資という行為自体は社会にとって重要な役割を持っているし、それは機関投資家のような一部の人が決めるのではなく、多くの異なった人達の手によって決まった方が面白いじゃないですか。
この部分は否定されたくないところですな。
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